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管理人 しろしたかれい 大分県在住の相撲好きです。
相撲起顕とは

相撲起顕は天保から嘉永年間にかけて江戸相撲版元の三河屋治右衛門が発行した江戸勧進相撲の番付と勝負付をまとめた書籍で全10楫が出版されました。このホームページでは相撲起顕に収録された享和元年(1801年)から嘉永六年(1853年)までの53年間108場所分(天保三年(1832年)春は中止、準場所3場所を含む)の番付と勝負付を元に星取表を作成することを目的としています。こちらでは国文学研究資料館にて公開されているものを参考にしました。

第一楫 天保十三年(1842年)発行 安永三年(1774年)春から寛政十二年(1800年)冬までの52場所中24場所の番付を収録

第二楫 天保十四年(1843年)発行 享和元年(1801年)春から文化三年(1806年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第三楫 天保十四年(1843年)発行 文化四年(1807年)春から文化九年(1812年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第四楫 天保十五年(1844年)発行 文化十年(1813年)春から文政元年(1818年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第五楫 天保十五年(1844年)発行 文政二年(1819年)春から文政六年(1823年)冬までの10場所と準場所2場所の番付勝負付を収録

第六楫 弘化二年(1845年)発行 文政七年(1824年)春から文政十二年(1829年)春までの11場所と準場所1場所の番付勝負付を収録

第七楫 弘化三年(1846年)発行 文政十二年(1829年)冬から天保六年(1835年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第八楫 弘化四年(1847年)発行 天保七年(1836年)春から天保十二年(1841年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第九楫 弘化五年(1848年)発行 天保十三年(1842年)春から弘化四年(1847年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第十楫 嘉永七年(1854年)発行 弘化五年(1848年)春から嘉永六年(1853年)冬までの12場所の番付勝負付を収録

第十楫の序文には「同(嘉永)七甲寅の年よ理後の興行ハ第十一編にゆづり」とあるものの第十一楫は発行されませんでした。

しこ名表記について

番付における表記を基本としていますが検索の便宜上字体などは平易なものに統一し機種依存文字などはなるべく避けるようにしています。表記については史料集成江戸時代相撲名鑑(飯田昭一著、日外アソシエーツ刊)を参考にしていますが、管理人の見解も加えています。

地位表記について

現在大相撲の番付は上から幕内、十両および幕下、三段目、序二段、序ノ口となっていますが時代に連れての変遷があり、このサイトでは(上段)、二段目、三段目、四段目、五段目としています。

凡例

○…勝ち

●…負け

×…引き分け 四つに組んだまま決着がつかない時に中改め(勝負審判)の判断で引き分けとなる。片方または双方が怪我のため取組が続けられない時には痛み分けとなるが、引き分けに含まれる。

△…預かり  物言いがつき中改めが協議をした結果どちらの勝ちでもないと判定されたもの。大名の抱え力士が関わる時に強引な物言いがついた際、大名のメンツを保つために預かりとなるケースがあった。

ム…無勝負  もつれた相撲で行司が同体と判断したときにどちらにも団扇を上げず「この勝負、無勝負」と宣言したもの。

や…休場   取組が組まれていたにも関わらず休場した場合、現在なら相手が不戦勝となるが江戸時代は双方休みとなった。

取組順について

現在大相撲の取組は下位から番付順に取り進み十両→中入り→幕内と進みますが、江戸から大正までは上位を二組に分け中入り前・中入り後それぞれに上位力士が登場しました。その際明治中頃までは番付地位ではなく東西それぞれでの序列により取組が並べられ、中入り前西4位東3位西2位東1位、中入り後東4位西3位東2位西1位の順に登場し翌日は中入り前後が入れ替わるという形でした。(例外は多数あります。)東西での序列は休場力士が出ると繰り上がったため西小結や西前1が東関脇より後に登場する例もあります。管理人の見解をまとめました。→

参考にしたサイト

大相撲星取表相撲評論家之頁相撲史に関心・興味のある方どうぞの各サイト様を参考にしています。

         

       

   

    

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